教会開拓者の妻たちへ

4年前、私と夫はノースカロライナ州グリーンビルで教会開拓を始めました。その頃の私たちはこれからどのように神様が働いてくださるかという希望で目を輝かせていました。そのうちに神様が私たちの街と教会開拓だけでなく、私たちの家庭と心にも働いてくださったので、もっと知恵に満ちた見方ができるようになりました。教会開拓者の妻として、私は数え切れないほどの挑戦と成長を経験しましたが、私の目には今でもあの時と同じ喜びと期待が溢れていると思っています。

神の子として生きる

神の養子とされた。その現実を前にあなたが最後に感動を覚えたのはいつですか? クリスチャンは、信仰の土台として義認を理解することは多いのですが、神の養子とされた、というもう一つの深い恵みは無視してしまいがちです。養子とは、単なる神学上の概念ではなく、私たちのアイデンティティと神との関係を再構成する現実です。使徒パウロはガラテヤ人への手紙4章4-7節で、それを次のように描いています。「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした」とあります。 これは、単純な赦しを超越した恵みであり、神ご自身との親密な関係をもたらすものです。

不安に左右されない存在

高校最後の年、敬愛する先生の一人からラッドヤード・キプリングの詩「もしも」が書かれているバースデーカードをもらいました。そこには人間性が試されるような困難にどうしたら「勇気をもって」対処できるかという、以下のようなキプリングの引用で始まっていました。「もしも  周り全てが理性を失い 失敗を君のせいにしても 君は自分を見失わず 冷静でいられるなら…」。

福音の全体像を見る

福音について考えるとき、何を思い浮かべるでしょうか? それは単に救いの方程式、つまり天国への切符のようなものでしょうか? それとも、私たちの存在全体がどのように形づくられたのかを紐解く物語でしょうか? 信仰に生きようとするクリスチャンにとって、福音を単なる過去の出来事としてではなく、今も生き生きと繰り広げられる物語として理解することは極めて重要です。この理解は、自分自身、世界、そして神との関係に対する見方を変えるからです。

インターネットの功罪

スマートフォンのフィードをスクロールするたびにはっきりとわかることが2点あります。特に選挙の年は、顕著です。

今年初めにメタモダニズムについて書いた記事で、私はこれを「私たちの文化の現時点における懸念すべき兆候」と捉えました。「多くのメタモダニストは、非論理的な見解を指摘されてもひるまない。自分の立場が矛盾しているという内面的な破綻を気にしていないのだ」と記しました。オンラインでの生活には認知的な不協和音が蔓延しています。しかし私たちはそれをもはや不協和音としてとらえなくなってしまったのです。私たちは内面的な破綻との共存に折り合いをつけました。これがインターネット時代の私たちの生き方です。